母・美智代が亡くなって

 今年、能登地方の大地震で正月元旦から大騒ぎの中母が亡くなった。

死亡したのは1月4日の午前7時20分。享年88歳。

 悲しいとか、そういう気持ちよりも直後から葬式の手配や葬儀を無事することに

集中していた。そのあとは書類の整理と役所や年金事務所、保険の整理のために書類集めとその書類の記載提出がたくさん有った。

仕事にはほとんど影響なく、日常を過ごした。MINIも無事購入した。

麻耶の相手もしたし、コンサートにもいつもどおり行っている。

 

自分の親が二人ともついにいなくなった。順番から行けば、次は私の番だ。それはいつかはわからないが。とにかく、先頭に立っていることだけは確かだ。

そして、この度のように母が亡くなるという悲しい出来事があったが、それがいまだにピンと来ていないのが不思議だ。

 

なぜなのだろう。自分を大切に育ててくれ、いつも気にかけてくれた自分の親である。これほど大事な存在が亡くなるという衝撃対して、感情は鈍いのか。薄情なのか?いや、そうではないと思う。

しかし、ショックは想像よりも感じない。なぜ?立ち直れないほどの悲しみに埋もれるようなことには全然ならない自分は冷酷な人間なのかとも思わない。

淡々と日々をまるで母の事も当然のことのようにこなしている。

昨日は悲しみの感情が高まるように、とっておきの音楽をじっくりと聴いてみた。

ブルックナー交響曲第9番ニ短調、指揮朝比奈隆ブルックナーの最後の録音だ。

響かなかった。それよりもショスタコーヴィッチのほうが響く。それは母の事や父の事ではなく、別の悲しい感情からだ。

 

こうして母に関する写真を貼ってみるといい写真がある。

 

しかし、亡くなった。悲しいことだが、何故か私の心には突き刺さるような思いはない。父の時もそうだが、晩年の苦しそうな日々を考えると、…いやそうじゃないな。苦しそうだったのは寂しがりのためだ。健康面ではなにも問題はなかったから。

愛する母は老いて表情が淡白になったが基本元気な人であった。

天国があるかどうかはわからないが、私の心の中には父も母も居る。私の身体の中に居るような気がする。

両親のためにも私がいい人生をこれからも生きていかねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

大阪フィルハーモニー交響楽団第575回定期演奏会

フェスティバルホール入口

13時半ごろにフェスティバルホールには到着した。コンサートの開演は15時でかなり時間には余裕があったが、今日は一大事的なコンサートだったのでこれでよかった。

 

地下階の喫煙ルームに籠りそわそわしながら煙草を何本か吸い、14時開場に合せてこの紅い絨毯をエスカレータではなく階段をゆっくり歩いてあがった。

 

2月10日、大阪フィルハーモニー交響楽団第575回定期演奏会はほんとに楽しみにしていた。最近の音楽の好みはロマン派後期から近現代が中心になっている。

ラヴェルラフマニノフプロコフィエフショスタコーヴィッチ、ストラヴィンスキー、ドヴュッシーなどが好みになった。

その中でも特にショスタコーヴィッチは特に好きだ。まだ全部は理解できていないが、どの曲も内容が深い。そして、特に現代のジョージ・オーウェル1984』的な息も詰まるような社会情勢はショスタコーヴィッチの心情にピタリと合っているように思えてならない。

彼が生きた時代は1975年迄であるが、共産主義思想統制の社会が現在の日本・欧州・アメリカに当てはまる時代になってしまっているような気がする。音楽の雰囲気は昭和だが、内容は現代の苛烈な、真綿で首を絞められているような閉塞感が当てはまる。

 

緊張気味のこの表情でもわかるとおり、ショスタコーヴィッチのの作品に共感し、今日のこのコンサートに臨んでいる。

 

前半のシュトラウスポルカ「クラップフェンの森で」はロシアの鉄道会社との専属契約での作曲らしく、パブロフスクは駅の地名でそれがウィーンで演奏されるときはクラッブフェンの森に曲名を変えたという、ロシアとの縁のある曲がプログラムの一曲目。

二曲目はショスタコーヴィッチのワルツを含む組曲。時代が昭和にぐっと引き寄せられる。前半はこれでおしまい。

いつもの喫煙所でコーヒー片手にたばこ。後半の前のくつろぎの時を一生懸命にバビー・ヤールの訳詞を読みながら過ごした。

 

 

後半が始まる。

絶望的な響きの管楽器が鳴る。もう、時代は殺戮の絶望に放り込まれたような暗い社会だ。ユダヤ人の民族差別以上の人間として生きていけない絶望があふれる。歌詞の中にアンネ・フランクの名称も出てくる。

そんな第一楽章がバスの野太い声と男声合唱で奏でられたあと第二楽章の「ユーモア」が始まる。ロシア的ショスタコーヴィッチ的なリズムでオーケストラ・合唱・バスが大音量のフォルテを繰り返し奏でる。凄い迫力だ。現代のデモーニッシュ。

それにしても大阪フィルハーモニー交響楽団は女性が演奏者が多いのにすごい音の厚みと高エネルギーな演奏を聴かせてくれる。

鳥肌の連続と内から湧き上がる突き上げるような感情が抑えられなくなるような感動。

たまんわ。びっくりした。ショスタコーヴィッチの音が井上道義さんに乗り移ったかのような、いや逆か、そんなリズム感とダイナミックスと反骨精神。権力に国家にこの世の中を歪めて人々を抑え込むような勢力には絶対に歯向かうという精神の現れ。

 

恐怖と抑圧、真実の正義を信奉するための音楽。ガリレオが地動説を唱え、宗教権力者から弾圧を受け、正しいことは正しいと自らの家族縁者親戚や一般社会からすべてに拒絶されても貫き通した精神。それを訴えている。

現代もメディア・マスコミ・テレビで嘘が教えられ、洗脳される。国家はアメリカなのかディープステートなのか一部の影の勢力に抑え込まれ本当のことを言えない世の中になってきた。スリーS洗脳により、享楽と英語的意味の労働と、抑圧を理解できずになる。ワクチンによる人口削減という殺戮や民主主義と自由を奪おうとするWHOの押し付けを否定できない脅された政府関係者や首相・内閣・国会議員、意見も言わない享楽に明け暮れるボンクラ国民一般大衆。

 

そんなことをふっと感じながらも大阪フィルと井上道義さんとバスのアレクセイ・ティホミーロフさん・オルフェイ・ドレンガー合唱団の皆様の圧倒的にすごい演奏に『生きていて良かった、こんな感動が味わえるなんて』と思った。

 

人生で何度とはない感動と興奮の演奏会だった。

これから師走

気が付けばもう12月だ。今年は昨年に比べると寒い。そして秋がほとんどなかった。

昨日、今年最後の紅葉を観に行った。

岸和田の牛滝・大威徳寺。初めて行った家から近い紅葉の名所だ。

何も考えず、BMWを運転すること約45分。それにしてもBMWの運転は快感だな。

エンジンはいい音を出す。加速もいい。いつも運転するたびにいい車だと思い、コマーシャルで言われている『駆け抜ける喜び』を感じる。まったく国産車とは別物だな、と

つくづく実感する。

そんな運転の楽しみを感じながらも、大威徳寺に到着した。

紅葉は終わりかけで、葉っぱはすでに枯れかけていた。もう少し日差しがあればきれいだったかもしれないが、あいにく曇りであった。

可愛らしい二重の塔?が建立されていた。1551年頃のものと立札に書いてあった。

もう五百年近く前のもののようだ。ただし四十年前ぐらいに修復したもののようだ。

寺の奥に小さな滝がいくつかあった。少々上りがきつく、足元もあまり良い状態ではなかったが歩いてみた。

子供のころに見たような、山と川、そしてきれいな清流。なんか心が洗われるような感覚だった。六十五歳という初老でなにも感動をすることも驚くことも感覚的になくなってきた昨今だ。別に生活に疲れているわけでもなく、毎日を淡々と過ごしているのだがこの俚た景色と山・川・建物に癒される。

特別きれいな紅葉でもなく、特に何もないのだが川の水の透明感に少し感動した。

休日を楽しむ人々も良い借景だった。遠足に来ている保育園の子供たちや同年代の夫婦やその他家族連れなどいろんな世代がいた。なんか人にも感動した。

それだけ自然豊かな場所で憩う人々は美しかった。つくづく思う。生きていてよかった、と。

令和五年十二月二日 午後

 

コバケンの三十二年目の最期のコンサートと左目の涙について

台風が来た。

なので今日は職場で仕事をするのを止め寛いだ、そんな一日。

ようやく八月十一日のコンサートの事を書く。

書こう書こうと思っていたので。

それは左目の涙について。

過去色々なコンサートに行った。

感動も数々経験した。

十一日のコンサートはその一つだった。

 

プログラムは

1,シューベルトの未完成

2,ベートーヴェンハ短調

3,ドボルザーク新世界より

 

演奏は

指揮者 小林研一郎

管弦楽 大阪フィルハーモニー交響楽団

 

会場は

フェスティバルホール

 

シューベルトはすこし聴いたが寝ていた。

ベートーヴェンは聴きこんだ。素晴らしいアンサンブルと低弦の重厚さ。

休憩前

ここでコバケンはいきなりマイクを持ち、喋りだした。

なんとこの三大交響曲の夕べは三十二年間継続して指揮をされていた。

それだけでも驚きなのに!

しかし、ここで話されたことは今回で卒業するということだった。

驚愕。唖然。

仕方がない。

御年、八十二歳らしい。

以前歩行が困難そうなときも知っているが、七月のコンサートでは矍鑠と

歩いてステージに登場していた。今回もそうだ。

まだ八十代。あと十年近くはできるのではないかなあと思ったが私の身体

ではないのでわからないが。

休憩時間の喫煙タイム、トイレタイム。

 

ドボルザークが始まった。

静かな出だしの弦の音がホルンとフルートでなんか目覚め始める。

突然低弦とティンパニが静寂を破る。

懐かしい暖かな旋律がヴァイオリン群で奏でられドボ節全開だ。

二楽章、あの有名な旋律がオーボエで始まりいろんな楽器で繰り返す。

いつまでも聴いていたい。

裏旋律は夕日の中仕事が終わり黙々と歩いているような情景が浮かぶ。

室内楽的な反復でいよいよ締めくくろうとする。

気が付くと左目から涙。

右目はそのまま。少し鼻がつまったような感覚。

そう、何故か左目のみ涙。

 

三楽章はインディアンが馬で駆け回るようなリズミカルがな音楽。

四楽章はいよいよ蒸気機関車がゆっくりそして徐々にスピードを上げ

汽笛を鳴らし走る。

 

残念ながら、この後母の家に二十時三十分には行かないといけないの

で、拍手を会場の人々と共有する至福の時間は端折った。

 

左目の涙を調べたら、悲しい・美しいということらしい。

 

小林秀雄のモオツアルトのト短調の『疾走する悲しみ』ではなく、おなじ小林秀

雄の万葉集の評論での『かなし』。海と空の蒼さとかなしという感情。

 

左目の涙は表現がなかなか難しい。

なんなんだろう。気が付いたら涙。

別に悲しいわけではない。

身体が心がすっと、軽くなる。

 

これについては今後のコンサートでまた考察してみよう。

 

 

 

 

 

 

来週は忙しい

来週は東京と徳島に行く。

 

そのいそがしい週の前の週末にコンサートに行く。

 

大阪交響楽団 第127回名曲コンサート ◇昼公演◇

[指揮]キンボー・イシイ
[ピアノ]中瀬智哉
[管弦楽]大阪交響楽団
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 op.18
ショスタコーヴィチ:バレエ組曲 第1番
ショスタコーヴィチ交響曲 第9番 変ホ長調 op.70
会場 ザ・シンフォニーホール

 

ベルリオーズの幻想だと思い込んでいたが、ショスタコーヴィッチだった。ただしこの曲は理解がまだできていない。

 

で今YOUTUBEサロネン指揮NDRの演奏で聴いている。

 

軽妙な皮肉1楽章は聞きやすいリズミカルで演奏時間も短い。問題は2楽章か。フルートのわかりにくいメロディアスな木管楽器のリレー。ショスタコーヴィッチの交響曲のなかでコーヒータイムみたいな軽さかな。

しかし、彼のテーマでもある社会不安が全面に出てきているがまだ軽い。なんとか気にせず軽く受け流そうという気持ちか。三楽章ではまた不安を感じつつ軽妙に受け流そう、そんな気持ちを感じる。リズミカルな木管楽器、弦、金管楽器が交互に奏でる曲想。一巡すると重々しさを装った低弦・ファゴットが現れる。ゆっくりとした不安がそれでも奏でられるが軽妙さがそれを打ち消そうとする。長調になりそうで短調。交互に行きかう。まるで今の世相を感じる僕の心境よりは重症な痛々しさを慰めてくれる。民謡調なメロディ。軽妙になる。打楽器の軽い打音に不安を感じつつ、いつの間にかフィナーレになるとますます軽妙かつ感情が表にあらわになる。行進曲風の不安を隠しつつ進むメロディがそこまでの痛々しさを現わさず、現実逃避のような軽い曲か。

深くはまだ理解できていない。

もう一度はじめから別の演奏で聴く。先ほどのサロネンよりも音色がふっくらしている。モーツァルトのディベルティメントのように軽く透明な音楽でリズミックだ。

ショスタコーヴィッチ・コーヒータイム交響曲か。おれも少しは心を軽くしないと潰れてしまう。たまにはいい。こんな軽めのショスタコーヴィッチの交響曲も。

楽しみにしておこう。

 

 

 

六月易

晴代

 

運勢  努力しても実を結ばぬ時

    成果が上がる時ではない

伏卦  本業以外に心を動かさない事

    余計なことはしない事

仕事運 すべてのことが一段落する時

    懸案事項はいったん落ち着く時

伏卦  争いがおこる。万事慎重の事。

    落ち着いて行動し、物事を収めるようにすること。

 

浪花さん

 

運勢  新規の計画は思いとどまること。

    新規の計画はしないようにする。

伏卦  普通の手段では片付かぬ時。

    かなり、問題が出るので面倒なことになる。

仕事運 警戒しつつ順々に進むこと。

    問題が起こらないように慎重な行動が必要。

伏卦  動揺せず現状を守って吉。

    落ち着いて対処していけばよい結果を得られる。

 

雑感 なにを書いても自由

世間では嫌な話題しかない。それが自分自身にどうかかわってくるのかわからないが。

書けば嫌悪感しかない言葉、単語はLGBTQ、ワクチン、種苗法、マスク、コロナ、昆虫食、為政者たち、テレビ、新聞、ニュース、NHK

それら大嫌いなもの・こと・人・集団は私に何をしてくるのだろうか?

大切な孫をとんでもない社会に放り込む。未来が絶望的にしか見えない。

 

それはそうと、私の未来はどうなる?

 

まだ実感が湧いてこないなぁ。職があり、収入がまだあるからか?
でも65歳なんだ。まだ仕事をしているんだ。

必要とされているかどうかは、自分では決められないが法律的にはすぐに解雇できないから居るのか?

まぁ未だ会社では居場所はあるみたいだ。それなりには役割もあり、やるべきことはやっている。そんな感じか。

でも生きていくには収入は必要だ。

 

そうなると年金のことを考えておかなくてはいけないなぁ。

 

でもなぁ、気力体力精神力。

 

生きていく、それしかないなぁ。